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地蔵坂は神楽坂通りから袋町へ上る坂

わらだな(地蔵坂)の写真

わらだな別称 地蔵坂は、神楽坂通りから袋町へ上る坂。

坂上には、光照寺(牛込城跡)や日本出版クラブ会館など があります。


わらだな(地蔵坂)の写真

わらだなの名は、藁(わら)を売る店があった事に由来 しています。

地蔵坂の名は、坂上の光照寺の子安地蔵にあることに 因みます。


わらだな(地蔵坂)の写真

日本出版クラブ会館の前身は、洋画の二番館興業の牛込館。

弁士に徳川夢声、松井翠声や山野一郎などが活躍していました。

詳細な日々の記録を綴っていた徳川夢声の日記にも、 当時の牛込館の様子が書かれています。


わらだな(地蔵坂)の写真

日本出版クラブ会館の外壁には、新暦調御用所(しんれき しらべごようどころ)天文屋敷跡地の案内板が 掲げられています。

当地は天正18年徳川家康が江戸城に入府する迄 、上野 大胡領主牛込氏の進出とともに、三代にわたる居館城郭の 一部であったと推定される。

牛込氏の帰頓によって城は廃城となり、 取り壊されてしまった。正保2年居館跡(道路をへだてた隣接地) に神田もあった光照寺が移転してきた。

その後、歌舞伎・講談で有名な町頭幡院長兵衛が、 この地で旗本奴党首の水野十郎左衛門に殺されたとの 話しが伝わるが定説はない。

享保16年4月、目白山より牛込・麹町・虎ノ門まで 焼きつくした大火により、この地一帯は火除地として 召し上げられさら地となった。


わらだな(地蔵坂)の写真

明和2年当時使われていた宝暦暦の不備を正すため、 天文方の佐佐木文次郎が司り、この火除地の一部に 幕府は初めて新暦調御用所(天文屋敷)を設け、 明和6 年に修正終了したが、天明2年近くの 光照寺の大樹が観測に不都合を生じ、浅草島越に移転した。

佐佐木は功により、のちに幕府書物奉公となり、 天明7年85歳で没す。

墓は南麻布光林寺。

以後天明年中は火除地にもどされ、 寛政から慶和までの間、2〜3軒の武家屋敷として 住み続けられた。

弘化年中には、御本丸御奥医師の山崎宗運の屋敷もあった。

この時代の袋町の町名は、今に至るまで変わることはなかった。

近世に入ってからこの地に庭園を構えた高級料亭一平荘が開業し、 神楽坂街をひかえ繁栄していたという。

昭和二十年の大空襲により神楽坂一帯は、 すべて焼失し焼跡地となった。

戦後は都所有地として高校グラウンドがあったが、 昭和30年日本出版 クラブ用地となり 開館建設工事を進めるうち、地下三十尺で大きな横穴を発見、 牛込城の遺跡・江戸城との関連などが話題となり、工 事が一時中断した。

昭和32年開館完成現在に至っている。

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