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芸者新道は、神楽坂に待合や置屋、料亭が集まっていた頃の花柳界の名残を名に残す路地で 神楽坂仲通りから本多横丁に抜ける路地で、まっすぐで緩やかな坂になっています。
■下の写真:芸者新道を神楽坂仲通りから臨む。
★神楽坂の花柳界の歴史(神楽坂花柳界のHPを参考にさせて頂いています)
〜誕生〜
神楽坂の花柳界は江戸後期の安政4年(1857)に誕生し当時は「牛込花街」と言っていたそうです。
〜明治〜
江戸時代は武家の街でしたが、明治以降は町人の街となり商業の発展とともに花街も発展した。
〜大正〜
大正12年の関東大震災は幸いに神楽坂は火災を免れ、松屋、三越、白木屋、銀座の資生堂などが引越してくるなどして、
さらに賑わいを増したとのことです。
〜昭和〜
昭和12、3年の最盛期は神楽坂に芸妓・幇間合わせて約600名、料亭・待合約150軒が有ったそうです。
〜現在〜
現在は料亭8軒と芸妓さん30名前後との事で、料亭は、うを徳・喜文・千月・白宮・牧・幸本です。
■下の写真:芸者新道を本多横丁方面にさらに進んでいます。
芸者新道は神楽坂から見たら、神楽坂と平行に走る東側の通りです。
この芸者新道は、明治時代にできた道で、芸者さんたちが近道に利用することが多かったのだそうです。
■さらに芸者新道を進んでいます
この芸者新道は「ロクハチ通り」と呼ばれたこともあるそうです。それは、料亭の一回目の開始が後6時で、二回目が8時からだったことに由来するそうです。 何だが粋ですね。
最盛期は神楽坂に芸者置屋や料亭がひしめき並んで600人を超える芸者衆がいたそうです。
■下の写真は芸者新道のほぼ中央で、突き当たりは本多横丁です。
突き当たりを左に進めば神楽坂仲通り、右に進めば軽子坂の通りです。
■下の写真は芸者新道を本多横丁側から見ています。
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