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行元寺跡地と寺内公園

行元寺跡地の写真

行元寺跡地(ぎょうがんじあとち)は、超高層マンションが建っています。

行元寺は、鎌倉時代からあったようで、江戸時代になると毘沙門天様と共に、神楽坂の人気のスポットになりました。


行元寺跡地の写真

行元寺の境内で、天明3年(1783)百姓第一号の刃傷事件がありました。

目上の者を敬う気持ち、儒教の教えに基づいた仇討ちは、武士である事が第一条件。

処が、行元寺で行われた仇討ちは、百姓の冨吉が、親の敵の甚内を遺恨を持ち決行いたしました。

仇討ちは、明治6年(1873)仇討ち禁止令が公布され、明治13年(1880)に仇討ちは殺人罪と定められました。


行元寺跡地の写真

行元寺は、区画整理により明治40年(1907)に品川区西五反田に移転しました。

跡地は寺内(じない )と称され、平成15年(2003)にタワーマンション竣工より1か月後に寺内公園が開園しました。

当初の予定計画では、公園は無かったようですが、タワーマンションの敷地60坪と区道が交換され、公園が作られました。


兵庫行元寺跡地横丁の写真

寺内公園の由来については、案内板に以下のように記載されています。

この寺内公園の一帯は、鎌倉時代の末から行元寺という寺が置かれていました。
御本尊の千手観音像は、太田道灌、牛込氏はじめ多くの人々が信仰したと伝えられています。
寺の門前には古くからの町屋兵庫町があり、3代将軍家光が鷹狩りに来られるたびに、 兵庫町の肴屋が肴を献上したことから肴町と呼ばれるようになりました。
江戸中期の天明8年、境内の東側が武家の住まいとして 貸し出されるようになりました。
この中に、貸地通行道(後の区道)という、人がやっとすれ違える細い路地がありました。
安政4年この一部が遊行の地となり神楽坂の花柳界が発祥したと伝えられています。
明治4年には、行元寺と肴町を合わせて町名牛込肴町となりました。
大正元年に大久保通りができました。
地元では、行元寺の跡地を寺内と呼び、味わい深い路地のある粋な花柳街として、 昆沙門さまの縁日とともに多くの人々に親しまれ、山の手随一の繁華街として賑わっていました。


行元寺跡地の写真

文豪、夏目漱石の硝子戸の中大正4年作には、従兄の住む寺内でよく遊んでいた 若き漱石の神楽坂での思い出話がでてきます。
また、喜劇王柳家金語楼と歌手山下敬二郎の親子や、女優花柳小菊 、俳優勝新太郎、 芸者歌手神楽坂はん子などが寺内に住んでいました。
このように多くの芸能人や文士に愛された寺内でもありました。
日本経済のバブル崩壊後、この一帯は地上げをうけましたが、 その後の高層マンション建設に伴って、区道が付け替えられ、この公園ができることになりました。公園内には、地域の人たちのまちへの思いやアイデアが多く盛り込まれています。
いつまでも忘れることのない歴史と由緒あるこの地の思い出をこの寺内公園に託し、 末永く皆様の思い出の場として大切に護り育てましょう。
平成15年3月吉日 新宿区 抜粋

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